第十一話 伊勢聡史vs巴ツインズ
執行部に黒髪ロングの男子がいるということなど観月は知らなかった。しかも九澄と同じC組。顔を見たことぐらいはあるはずだが、よほど影が薄いのか、単に観月が九澄しか見ていなかっただけか。多分両方だろう。二人は氷川に仲介してもらい学校の図書室で落ち合った。その男子は暗い雰囲気ながら人畜無害な印象を受けたので観月はほっと胸をなでおろした。もし小石川のような粗暴な男だったら即座に立ち去っていたところだ。
「九澄のことで話があるんだって?」
「うん……その……すごくおかしな話なんだけど……単なる妄想と思われるかもしれないけど……聞いてほしいの。そして出来れば意見を聞かせてほしい。もちろん誰にもこのことを喋らないって約束で」
その男子、影沼次郎はしばらく考えてからこう切り出した。
「それって九澄が魔法を使いたがらないことと関係があるの?」
「どうしてわかったの!?」
観月は思わずガタンと立ち上がった。影沼は目を丸くしたが、口を手で覆って話を再開する。
「僕もそのことについては考えていたんだ。九澄の強さの秘密が知りたくて……彼を観察していたらふと気がついた。彼は滅多に魔法を使わない……。九澄が魔法の濫用を嫌っているのは誰でも知っている。だけど身近で観察すればするほど、少しずつだけど確実に、不自然に思えてきた……」
影沼は慎重に言葉を選んでいるようだった。少し目を泳がせてから核心に触れる。
「もしかしたら彼は魔法を使わないのではなく、使えない理由があるのかもしれない」
観月はゴクリとつばを飲み込んだ。自分と同じ考えに至った人間が存在したことが、驚きであると同時に安堵の気持ちもあった。少なくとも自分だけがイカれているというわけではないのだ。
――その時影沼は話を続けながら机の下で携帯を操作していた。観月がそれに気付くことはなかった。
「だけどこの仮説には致命的な欠陥があるんだ。彼は現に魔法を使ったことがある。僕や他のクラスメイトの目の前で。この事実はどうしたって動かせないものだ。『使える』のに『使えない』、そんなことが果たしてあり得るものだろうか。僕にはこの矛盾を解く鮮やかなアイディアなんてない。だけど一つ考えていることがある。それは彼のゴールドプレートは完全なものではなく何らかの制限があるのではないか? ということなんだ。例えば一日一度しか使えない。例えばMPが非常に少ない。例えば特定の条件を満たした時にしか発動しない……。一年生である彼にゴールドプレートを与えるなら、むしろそうした制約がある方が自然ではないかと僕は考えた」
観月は知らないが、影沼にとってこれは一日の平均会話量に匹敵するほどの長文である。しかし彼女はそんな事よりも話の内容に引き込まれた。自分では至らなかった考察を含んでいるのだから無理もない。そして同時に影沼が持たない情報を観月は持っていた。
「あの……その『特定の条件』について、ひとつ考えがあるの。それについてどう思うか聞かせて欲しい」
観月は一文一文頭を整理しながらゆっくりと話し始めた。
####
校舎の屋上は魔法バトルのメッカである。もちろん校則では禁止行為と定められているが、揉め事を力で解決するならこの場所というのが聖凪高校に古くから伝わる伝統なのだ。その場所で伊勢聡史は巴ツインズと対峙していたが、彼の視線は双子の後ろでイヤフォンに気を取られている望月悠理に向いていた。
「……おいこら、これから決闘だってのに、一体何聞いてんだてめーは」
「えーっ、あたしが戦うわけじゃないんだし、別にいいじゃない。これからいい所なんだけどな」
「下らねーこと言ってんじゃねえ。まともに観戦する気がないならとっとと失せろ」
望月はやれやれと肩をすくめてイヤフォンを外しポケットに仕舞った。それから前方の双子に目配せする。
「ルールは……まあなんでもいいか。あんまり大怪我させないようにしてね」
「うん」「わかった」
双子が同時にうなずく。伊勢はまたしてもイラッとしたが、腹の中は既に冷静だった。伊達に場数を踏んではいない。
「もう始まってるんだよな」
伊勢はポケットからアクセサリーのシルバーチェインを出し、それを巨大化した。伊勢の最も得意とする魔法、入学当初からの十八番、それが物体強化魔法を施した鎖による攻撃である。通常、物体強化魔法は対象物を限定しないが、それに対する愛着や馴染みが強い物ほど効果は大きくなる。津川のスケボーがわかりやすい例だ。伊勢にとって、中学時代から愛用しているシルバーチェインはまさにうってつけの武器だった。
(だがここまでは従来通り……ここからが対九澄用スペシャルだ!)
巨大化した鎖がみるみる形状を変えていく。それはあたかも樹木の成長を数秒に圧縮しているかのような急激な変化だった。瞬く間に鎖は四本に枝分かれしそれぞれが独自の意思を持つかのように動き出す。
(四つ首の龍〈フォーヘッズドラゴン〉、それがこの技に俺が与えた名!! 竜の首に見立てたそれぞれの鎖を自在に操り、あらゆる角度から同時に攻撃する!! 九澄は謎の防御魔法によって魔法を消去する! だがこの技は予測不能!! 反応不能!! 全方位から襲い来る四本の首を同時に消すことなどできやしねえ!!! そして一方でこの魔法は対複数戦においても最高の武器!!)
伊勢は左右の腕を交差する形に振り下ろす。四本の鎖が弾かれたように一斉に飛び出し巴ツインズに襲いかかる。双子はギリギリのタイミングでそれぞれ左右に跳びそれらを躱す。
「甘え!!!」
鎖は二本づつに分かれ双子に迫る。双子は二人同時に魔法プレートを構えた。何らかの防御魔法を使おうとしているのだ。
「そんな小細工は通用しねーぞ!!」
鎖の先端部は直径一メートルはある金属の塊だ。まともに食らえば悶絶と打撲は免れない。並外れた頑丈さを誇る九澄でさえ一撃で大ダメージを負ったのだ。だが巴♂はその鎖が目前に迫った瞬間、薄く微笑んだ。
ガキンという大きな衝突音。伊勢の耳が痛む。だがそれ以上に目の前の光景に伊勢は目を見開いた。
防がれている。
二首の龍は巴♂の魔法シールドによって完全に弾かれていた。伊勢は咄嗟に逆方向に目を向ける。全く同じ現象。巴♀の目の前でヒビの入った鎖が舞っていた。
「凄い凄い」「だけどこの程度じゃあ」「僕達の防御は」「破れない」
(馬鹿な……!!)
四本が二本になったところでそのパワーは並の二年生レベルの全力を凌駕する。それを単なる魔法シールドで完璧に弾くなど。相手の魔法力の方が上ならともかく、二人共プレートの格ははっきりと伊勢より下なのだ。だが伊勢は、その時双子のプレートが微かに見慣れない光を放っていたことに気付かなかった。
(くっ……そんなはずはねえ!!)
伊勢は手を掲げて鎖を呼び戻す。四本の鎖は伊勢の頭上でらせん状に高速回転し、融合、一本の巨大な鎖に変化する。
(四本同時に操るのはまだ訓練不足だったか? 気付かねーうちに一つ一つのパワーが計算より落ちていたのかもしれねーな……この際フルパワーの一撃で一人ずつ叩き潰してやる!!)
鎖の先端は二メートルを越す金属球に変化する。生身で食らえば即死しかねない程の強大なパワーがそこには宿っていた。それは伊勢が腕を振り下ろすと同時に大砲のような勢いで巴♂に迫る。
巴♂は避けようとはしなかった。両手を前に突き出し、その前方にプレートを浮かせる。明らかに防御魔法で真向から受け止める構えだ。失敗すればただの怪我ではすまない。
(正気か!? パワーの違いぐらいわかってんだろう!?)
伊勢は勢いを弱める気はなかった。それがバトル。たとえ負けて重体になったとしてもそれは弱い者の責任。
鎖の先端と巴♂のプレートが衝突する。耳を裂かんばかりの轟音。
その直後伊勢が見た物は、制御を失って無残に宙を舞う己の武器の成れの果て。
(馬鹿……な……)
(俺の全力の一撃が……)
(二年かけて磨き上げた……俺の最強の技が……)
伊勢が茫然自失となっていたのはほんの一瞬だった。
なぜなら伊勢の背中を、鋭い激痛が襲ったからだ。苦痛に顔を歪めながらなんとか後ろを向いた伊勢が見た物は、巴♀の小憎らしい微笑。隙だらけだった伊勢の背中には魔法で強化されたボールペンが刺さっていた。
「後ろが」「がら空きだよ」
「う……うおおおおおおっ!!!」
伊勢は鎖のコントロールを取り戻し、全力で振り回す。ヒビ割れたとはいえまだ大きなパワーを持つそれを、しかし巴♀もまた簡単に弾いてしまう。同時に再び背中への衝撃。伊勢はバランスを崩し膝をつく。
(俺が……こんな奴らにいい様にあしらわれているってのかよ!!)
まだ新しい魔法を使うだけのMPは残っている。だが伊勢の精神は既に冷静さを失っていた。通用しない。パワーで自分より劣るはずの相手に、戦術以前の力勝負で負けている。その事実はあまりに深刻だった。
ツインズが同時に遠距離攻撃魔法を放つ。複数の角度から襲い来る防御不能の攻撃。伊勢がやろうとしていたことを今相手にやられていた。伊勢は地面を転がりかろうじてそれらを躱す。更になんとか不利な立ち位置から逃れようとするが、ツインズは正確に伊勢を挟み撃ちにするポジションを保ちつつ攻撃を続ける。フェイントと、死角からの本命攻撃。あるいはフェイントと見せかけての正面攻撃。すべての行動が滑らかに繋がる合理的な組み立て。明らかに連携戦闘の訓練を積んだ動きだ。そのような相手に対して伊勢は対処のための知識も経験も持たない。聖凪の授業において魔法による連携を専門的に学習することはないのだ。
(こいつら……なんのサインもなしに完璧なチームプレイをやりやがる。今までに俺が倒してきた相手とはコンビネーションの練度が全く違う!)
鎖を体の周囲で回転させ、動的な盾のように使い致命傷を防ぐ伊勢だったが、体のあちこちに浅い生傷が刻み込まれていく。誰の目にもジリ貧は明らかだった。その様子を眺める望月は楽しそうに目を細める。
(ふふ……双子ならではの完璧なコンビプレイ、それだけでもあの二人は厄介極まりない……。だけど彼らの強さにはもうひとつ"からくり"がある……。プレートのレベル差を埋め合わせて余りあるその"からくり"がわからない限り……あなたに勝ち目はないわよ、伊勢くん)
追い詰められた伊勢の、それでも恐怖を押し込め闘争心を絞り出そうとする必死の表情を見て望月はゾクゾクとした嗜虐心を覚えた。
(ああ……こんな事ならあたしが傷めつけてあげれば良かった……ねえ伊勢くん、それで終わり? 違うでしょう、伊勢くん?)
(クソッタレ、このままじゃ……ここで、こんな所で負けるっていうのかよ!?)
「負けられねえ……!」
痛みで力が抜けそうになった脚に活を入れ、踏み込む。睨みつける相手は余裕綽々の巴♂。再び鎖に限界近い魔法力を注ぎ込み、振りかぶる。
「ブッ!! コロ!!! ス!!!!」
咆哮。鎖を、投げる。
刹那、伊勢の両足が重力を失う。伊勢が思い切り踏み込んだその瞬間を狙って、巴♀が背後から脚を払ったのだ。武器は魔法によって強化延長されたスカーフ。完璧な不意打ち、伊勢は受け身を取ることもできず豪快に転ぶ。
「これで」「決まりだね」
双子が同時に上空へと小石を投げる。2つの小石は伊勢の真上で巨大化し、真っ直ぐに落下していく。
「クソッ……タレ……」
(もう間に合わない)
(下敷き)
(敗北)
(惨めに)
(負け)
暗転。
ズズンという重い轟音が響き、静寂が戻ると共に双子が戦闘状態を解いた。完全なる勝利。このあと必要なのは伊勢の治療だけ。
だが望月は双子とは違う場所を向いていた。
その視線の先で、一人の男が肩に一人の男を抱えていた。
「ケッ……てめーに助けられるたァ人生最悪の一日だぜ……」
伊勢がぼやいた。伊勢を抱えるは長髪にバンダナ姿の優男。
「相変わらずだなお前は……礼ぐらいはちゃんと言え」
永井龍堂。
伊勢聡史のかつての仲間にして現ライバル。そして魔法執行部支部長を勤める男がそこにいた。永井は真っ直ぐに望月を見据える。
「"これ"は明白な校則違反だ……生徒会長であっても例外ではない。わかっているよな」
望月は少しもたじろがずにクスリと笑う。
「そうね……とっ捕まえてみる?」
「そうさせてもらう」
「そうは」「いかない」
双子が立ち塞がる。
「……っておい永井。とっとと降ろしやがれ」
そう言うと伊勢は永井を自分で振りほどいた。永井は伊勢を心配そうに見やる。一つ一つの怪我は深くないが、痛々しいほど多数の傷が体のあちこちに残っていたのだ。
「怪我は大丈夫なのか?」
「こんなもん全然大したことねーよ。だいたい何だてめー、俺がこんだけ苦戦した相手に一人で勝つつもりかオイ!」
「……それが支部長としての俺の勤めだ」
伊勢の血管がピクピクと浮き立つ。
「そういうスカした態度が気に入らねーつってんだよ俺は!!」
伊勢は永井の襟を掴みまくし立てた。永井は眉間にシワを寄せ苦々しい表情で伊勢から目を逸らす。
「……お前はそれでいいのか?」
「あァ?」
「前に言ったはずだ……お前はまだ執行部の一員だと。それがまたこんな所で喧嘩をして……いつまで一人で突っ張っているんだ」
「…………!!」
「俺は……俺の任務を果たす。それがどんなに困難であろうとも……それが俺の仕事であり、俺の誇りだ」
永井は伊勢に背を向け、双子と望月を見据え一歩前に踏み出した。その背中にかつての、実力に見合わずいつも自信無さげに振舞っていた頃の面影はない。
「だがお前がそれを理解できないというのなら……大人しく退がっていろ」
「……待てよオイ!!」
伊勢が永井の肩を掴んだ。
「いつもいつもそうやって格好つけて一人で背負い込みやがって……! 俺が一番気に入らねーのはあのクソ女なんかじゃねー! てめーなんだよ!」
伊勢の唇はわずかに震えていた。言いたいことは腐るほどある。だが言葉にならなかった。唯一つ、今言うべきことがあった。
「今回だけだ……! 今回だけはてめーに手を貸してやる!」
「ああ……そうしてくれると助かる」
永井は安心したようにつぶやく。
「ケッ……」
伊勢は肩を掴んでいた手を放り出し、ポケットに両手を突っ込んで永井の横に踏み出た。
永井龍堂と伊勢聡史、二年生最強と謳われる二人が並び立つ。かつて一年生の間で無敵コンビと呼ばれたデュオの一年ぶりの復活劇。事情を知る者なら何かを感じずにはいられない光景だ。
いつしか伊勢の体からは疲労とダメージが消え去っていた。ただ怒りと闘志だけがみなぎる。永井もまた、これまでになく血が滾るのを感じていた。
「秒殺で行くぞ!!」
伊勢が叫んだ。
「おう!!」
永井が応えた。
双子は微笑を崩さないが、その頬に冷や汗が流れる。
第二ラウンド、伊勢聡史・永井龍堂vs巴ツインズ、開幕。
ここでは過去に管理人が執筆して外部サイトに投稿した小説、SSなどをまとめています。管理人は二次創作作品の原作に関する権利を有していません。オリジナル作品の著作権は管理人に帰属します。エムゼロEXはArcadia様にて連載中です。
2012年7月17日火曜日
2012年7月10日火曜日
エムゼロEX 10
第十話 名探偵観月?
観月尚美はリビングのソファーに寝転がってTVのチャンネルを次々切り替えていた。地上波、BS、CS、どの番組にもまるで興味が沸かない。というより今の観月を惹きつけるのはどんな名作映画や爆笑バラエティにも不可能なミッションだ。
心ここにあらず。
観月にとって目の前の液晶画面が映し出すどんな映像も素人が描いた出来の悪いパラパラ漫画に過ぎなかった。
「あんた最近悩み事があるでしょ」
背後から突然聞こえた声に反応して観月はガバッと身を起こした。
「お姉ちゃん」
パンツ一丁にバスタオルを首からかけただけの、あんまりといえばあんまりな風呂あがりスタイル。父親が単身赴任中で女しかいない観月家だからこそ可能な姿で姉が立っていた。
「なになに、例のカレの事で悩んでんの?」
観月の顔がカッと熱くなる。
「べ、別に九澄のことなんか気にしてないわよ!」
「そうそう、その九澄君。そろそろキスぐらいは済ませたわけ?」
「キ、キキキキキ……」
観月の顔はいよいよ焼けた鉄のように真っ赤に染まる。姉はその様子を見て大げさに溜息をついた。
「その様子じゃ進展なしみたいね。まったく、男一人落とすのにいつまでかかってんのよ情けない。とてもあたしの妹とは思えないわ」
「お、お姉ちゃんみたいにはなりたくないわよ!」
姉は顔立ちこそ妹によく似ているが性格は随分違う。少なくとも尚美は、自分が大学生になったとしてもヘソにピアスをつけたり髪の毛をメッシュ染めしたり財布にコンドームを常備するようになるとは思っていない。とはいえ姉のことが嫌いなわけでもない。姉は昔からいつも尚美には優しかった。同時に少々お節介でもあった。
「いい、男なんてもんはちょっと色目を使ってやればホイホイってついてくんのよ。所詮は猿よ猿。あんた可愛いんだから女の武器を使えばいいって言ってんの」
「だ、だから、九澄のことじゃないって言ってるでしょ! もう! 関係ないからあっち行っててよ!」
やれやれとでも言いたげに姉は肩をすくめた。男嫌いだった妹がようやく色気づいたと思ったらこの調子だ。いっそ九澄とやらに連絡をとって妹を強引に押し倒せとでも言ってやろうかなどとロクでもないことを考えていると、その妹がうつむきながらボソボソとしゃべりはじめた。
「あ、あのさあ……お姉ちゃんは、もし好きな人が嘘ついてるかもって思ったらどうする?」
「なになに? 浮気してるって話?」
姉が目を輝かせる。
「い、いや、浮気とかそういうのじゃなくて……」
「よねえ。付き合ってもいないのに浮気はできないもんねえ」
「だからその……一度疑わしく思ったら何もかも疑わしく思えてきて……何を信じたらいいのかわからなくて……でも本人には聞きたくなくて……その……ええっと……」
「尚美……あんた……」
姉が真剣な顔で尚美ににじり寄る。次の瞬間姉は勢い良く妹を抱きしめた。
「可愛い~~~!!」
「???」
何が姉のツボにはまったのか尚美にはまるでわからなかった。
「あんたもとうとうそういうことに悩むようなったのね! お姉ちゃん嬉しい!」
「へ、変なことで喜ばないでよ!」
「だってー、あんたの年にはあたしは15人ぐらいはケーケン済みだったのに、あんたってばそういうの全然ウブなんだもん。お姉ちゃんとしては心配になっちゃうわよ」
「じじじじじ、15人……? 高一で……?」
想像を絶する数字に尚美の思考が固まる。
「いーい尚美、サイコーの解決方法を教えてあげる」
「サイコーの解決法……?」
姉は満点の笑顔とともに力強く言い切った。
「エッチすればいいのよ! エッチすれば男の本性なんてまるわかりなんだから!」
「できるかーーーーー!!!!」
尚美は絶叫した。
「あ、でも避妊だけはちゃんとしときなさいよ。いやーこないだ生理が遅れた時は怖くて怖くて……」
「もういいからあっち行って! お姉ちゃんのバカ!」
姉を振りほどきクッションを思い切り投げつける。姉はそれを受け止めて「初体験の感想は聞かせてねー」と笑いながら軽やかに去って行った。残された尚美はドサリとソファーに倒れこむ。酷く疲れた。
「はあーっ、お姉ちゃんは全然役に立たないし、どうすればいいんだろう」
自分一人ではいくら考えても答えが出そうにない。かといって魔法を知らない人間に相談しても時間の無駄だ。かといって聖凪の誰かに相談するとしても、「九澄大賀は魔法が使えないのでは?」なんて誰に言っても信じてもらえそうにない。いや待て、そもそも九澄は魔法が使えないという疑問は正しいのか?
観月は九澄が魔法を使ったことがあることを知っている。例えば彼と初めて出会った日、ホーレンゲ草を取りに行った洞窟でのこと。九澄は地図もない複雑な洞窟の中で最奥部までの道順を難なく見つけ出し、トラップもことごとく見破ってみせた。魔法もなしにそんな事は――
(違う……不可能じゃない!)
ルーシー。九澄はあの洞窟でマンドレイクの少女ルーシーと出会っていた。ルーシーはあの洞窟の住人だ。彼女の助力があれば洞窟の構造など全て筒抜けだったのではないか? だとすれば九澄がルーシーのことを徹底的に隠していたことも説明がつく。文化祭の時に愛花と自分に見つかっていなければ、九澄は今も彼女の存在をひた隠しにしていただろう。
クラスマッチはどうだ? 自分と小石川に囲まれた時、九澄は魔法を一切使うことなく機転と駆け引きでその場を制してみせた。その時自分は九澄との器の違いを思い知ったが、もし九澄が魔法を使えないのだとしたらあの行動こそ九澄が取れる唯一の手段だったことになる。気味が悪いほど辻褄が合ってしまうのだ。だが一つ問題がある。大門との一騎打ちになった時、九澄は大門の攻撃を何らかの防御魔法で防いだのだという。大門本人がそう言っていたのだからこれは間違いないはずだ。この一点を持って疑惑は否定されたと言えるのではないか――
(いいえ、騙されたらダメよ!)
その時大門が使ったのは遠距離からの弓による射撃だ。九澄が具体的に何をしたのか大門にもわかっていない。その上九澄は自分が攻撃する際にはやはり魔法を使わず素手で風船を割って勝利したのだそうだ。実に怪しい。疑惑解消と言うには早すぎるではないか。
(とはいえ……)
観月は溜息をついた。いくら理屈をこねまわしたところでこの仮説には大きな欠陥があるのだ。
(あたしはこの目で九澄の魔法を見ちゃってるのよね……)
割と最近、九澄が学校の廊下で大暴れしたことがある。小石川を一蹴し大門もまとめて説教臭いことを言ったあげく――
(あ、あたしを抱きかかえて……お、おおお、お姫様抱っこ……)
観月はその時の感触をいつでも鮮明に思い出すことができた。そのたびに全身がぽうっと熱くなり切ない気分になる。いつしか観月の手は自分の股間へと伸びていき――
(って、そんなことしないわよ!!)
観月は首を振って我に返った。
話はそこで終わらない。あの男は様子を見に来た柊先生に向かってあろうことかタメ口を聞き、お前呼ばわりで命令、そして当然即怒りのボルテージを上げた先生に対し、あの男は何やらスゴイ魔法を使って自分の力を誇示してみせた。その結果なんと先生は途端に大人しくなり、九澄をどこか、確か校長室だったか、言われるがままの場所に連れて行ったのである。柊先生ですら本気の九澄には逆らえない。その噂は一瞬で広まり、九澄に挑もうとする者はますますいなくなった。この事件がある以上九澄は魔法を使えないなどという説は単なる戯言にすぎない。だが観月はどうしても納得しきれなかった。
(そう……あの時の九澄はどこか……というか何もかもが変だった……あいつがあたしを意味なく抱き上げたりする? 挑発のために魔法を使ったりする? 自分のことを「ボク」って呼んだりする? あの時はああいう強気な九澄もいいかもって思ったけど……やっぱり絶対に変!)
今思えばあの時の九澄は別人だったのではないか。柊先生が逆らえなかったのもその正体に気付いたからではないか。つまり、柊先生より偉い誰かだと。
(でもそれも変……そんな人がどうして九澄に化ける必要があるんだろう。それ以前に、あれはやっぱり九澄……あたしがあいつの顔を見間違えるわけがない……あれが九澄なのは間違いない……だけどやっぱりおかしい……九澄なのに九澄じゃない……それってどういうこと……?)
頭が痛くなってきた。もとよりあれこれと考えるのは得意ではない。熱いコーヒーでも飲もう。そう考えて観月が立ち上がったその時、それは聞こえた。
『この二重人格野郎!!』
観月ははっと振り返る。テレビの中で厚化粧の女優がそう叫んで男をなじっていた。テレビドラマのワンシーンだ。
(二重……人格……?)
ドラマの中でその言葉は主役の男の裏表ある性格のことを指していた。だが観月の脳裏にその言葉の別の意味が浮かび上がる。ジキルとハイド。本当の意味での二重人格。全く異なる2つの自我が一人の人間の中に存在すること。
(もしかしてこれって……!)
####
翌日の放課後。
「あたしに相談?」
観月に話しかけられた氷川今日子は眉一つ動かさず答えた。観月は薬品部の仕事上頻繁に執行部に出入りしているので顔見知りではあったが、ほとんど話をしたことはない。そういう人から相談を持ちかけられれば面食らうのは当然だ。氷川は感情を顔に出さないタイプだったが、多少なりとも驚いていることはポカンと開いた口から見て取れる。
「う、うん……時間あるかな……?」
観月は遠慮がちに尋ねる。
「悪いけど執行部の仕事と、それが終わったら塾があるから……だけどどうしてあたしなの?」
氷川は当然の疑問を発した。相談事ならもっと仲の良い友人を選ぶのが普通だろう。まさか友達がいないというわけでもあるまい。
「えっと……つまり相談の内容ってのが問題で……ある人のことを良く知ってて、口が堅くて頭も良い人っていうのが氷川さんしか思いつかなくて……」
氷川は九澄と同じ執行部員でクラスも同じC組。当然何かと接点は多いだろう。もちろんもう一人該当する人物がいるが、こと九澄のことに関してその人物に相談するのは絶対に避けたかった。なんというか、とにかく嫌だった。
「もしかして九澄くんの話?」
「えっ!?」
観月の心臓が跳ね上がる。その様子を見て氷川はふんふんと一人納得した。
「ど……どうして九澄のことだって……」
「いや、とある情報筋からあなたが九澄くんのことを好きだって聞いてね。それでもしかしたらと思ったんだけど」
「と、とある情報筋って……」
「ああ気にしないで、そんなに噂が広まってるってわけじゃないから。そういうのに目ざといゴシップ男がうちのクラスにいるってだけの話。たまたま九澄の話になった時に聞いたんだけど、あんまりそういうのを言いふらすなとは言っておいたわ」
どこか遠くで伊勢カオルがくしゃみをした。
「で、恋愛相談だったらあたしは不適格だと思うけど」
「ち、違うの。そういうのじゃないのよ。なんて言ったらいいのか……とにかくもっと違う話。こう……複雑で信じがたい話、頭おかしいんじゃないのって言われるような話なんだけど……」
氷川はしばらく考えこんでからふむ、と前置きした。
「そういうことならあたしより適格な相手が一人」
「え?」
「男子でも良ければ」
氷川が上げた人物の名を観月は知らなかった。男子というのも観月にとってはハードルが高かったが、氷川が適格と言うのだからともあれ一度会ってみることにした。今はとにかく話を聞いてくれる人間が欲しかった。
####
「そろそろ来ると思ってたよ」
生徒会本会議室。生徒会長である望月悠理が机に肘をついたまま微笑んだ。目の前に立っているのは見るからに不機嫌な感情をにじませた男。
「てめーに話がある」
「そんな怖い顔しないでよ、男前が台無しじゃない」
望月がおどける。男の額に血管が浮かぶ。
「ふざけたマネもいい加減にしやがれっつってんだ」
静かな、しかしただならぬ怒りのこもった低い声。並の者ならそれだけで縮み上がってしまうかもしれない。しかし望月はますます嬉しそうに目を細めた。
「まあまあ落ち着こうよ。話ならお茶でも飲みながらゆっくりとさ。そう思わない? 伊勢くん」
伊勢聡史。一年C組伊勢カオルの兄にして、二年生屈指の実力者と言われる一匹狼。彼は一人『敵陣』の中にいた。会長席に座る望月と、机越しに彼女と向かい合う伊勢、そしてその伊勢を後ろから見張る会長補佐の二人。ちょうど伊勢一人を二等辺三角形の陣で囲む形になっている。もちろん伊勢はそれを承知で対決姿勢をあらわにしていた。
「茶はいらねー。てめーの出した茶なんざ、何が入ってるかわかったもんじゃねーからな」
「あーらら、信用されてないなあ、あたし」
「んな事ァどうでもいい。例の聖凪杯とかいうふざけたイベントのことだ。なぜてめーが二年生の代表になっている!?」
伊勢は大会告知のチラシを机の上に叩きつけた。その隅に小さく、二年生代表望月悠理と書いてある。
「二年生最強っつったら俺か永井だろうが!! てめーの出る幕じゃねーよ! ていうかてめー主催者側じゃねーか!!」
伊勢が一気にまくし立てた。まさに怒り心頭といった面持ちだ。
「そりゃあまあワールドカップの開催国枠みたいなもんで。それに永井くんは同意してくれたよ? 伊勢くんだってこんなイベントにどうしても出たいってわけじゃないんでしょ?」
「大会自体はどうでもいいがてめーの好き勝手にされるのは我慢できねーんだよ」
「なんと立派なご意見」
望月が肩をすくめる。一切緊張感を感じさせないその態度にいよいよ伊勢のフラストレーションがグツグツと煮え立つ。伊勢は相手のペースに乗せられないために大きく深呼吸し、それから天井を指さした。
「ゴチャゴチャ口論しても埒が明かねーな。屋上に来い、白黒つけよーじゃねーか」
「あたしが? 伊勢くんと? なーに、愛の告白?」
望月はわざとらしく両手で顔を覆ってキャ~照れる~などとはしゃいでみせた。
「なわけねーだろ!!! バトルでケリつけようっつってんだ!!!」
伊勢は机を思い切り叩く。かなりの轟音が響いたが望月はまるで動じずニヤニヤと伊勢を見上げた。
「確かに"力"では伊勢くんのほうが上でしょうね。でも、勝てないよ。"力"じゃあ勝てないよ。三年生や九澄くんにはもちろん、あたしにも、後ろの二人にもね」
「ああ?」
伊勢は首をひねって背後に立つ二人を睨みつける。瓜二つの美形顔を持つ双子の男女。二年生では名の知れた巴ツインズだ。どちらが兄だか姉だか伊勢は知らないが。
「俺や永井よりお前やこの二人の方が強えって言いたいのか?」
伊勢にとっては到底認めがたい発言だった。巴ツインズが有名なのはあくまでその特徴的な外見のため。魔法の実力が高いなどという話は聞いたことがない。望月悠理にしても、生徒会長という肩書き以上の何かがあるとは思われていない。あくまで彼女の得意分野は頭脳労働のはずだった。一方で伊勢や永井は平均レベルの二年生相手なら4、5人まとめて倒せるだけの力を持っている。この3人を同時に相手にしても決して不利ではないと伊勢は確信していた。
「強いってのとはちょっと違うかな……"強い"のは伊勢くん。でも"戦って勝つ"のはあたし達。猛獣がずっと非力な人間に狩られるようにね」
望月はさも当然の事実を述べているまでといった風にサラリと言ってのける。伊勢の頭の中で何かが切れた。
「……ここまでムカついたのは永井の帽子にコケにされた時以来だぜ……。おい、とにかく屋上に上がれ。まとめてスクラップにしてやる」
「三対一じゃちょっとこっちに有利すぎるなあ。こうしようよ、伊勢くんはその二人と戦う。巴ツインズは二人で一人。二対一で君が勝ったらあたしはおとなしく出場権を譲るよ」
「ハ……こんな時まで人任せたァてめーらしいこった。おい、てめーらはそれでいいのか?」
伊勢は双子の方を向いて尋ねる。
「一向に構わないよ」と巴♂。
「ええ、凄く楽しみ」と巴♀。
表情や手の動きまで不気味にシンクロしている。伊勢はそれを見て顔を引きつらせた。こんな気持ち悪い連中にこれ以上付き合っていられない。秒殺だ。中学時代から喧嘩慣れしている伊勢は即座にファイトプランを固めた。打倒九澄のために磨き上げた新魔法、それで即終わらせる。
望月は伊勢の背中を見送りながら携帯の受信メールをチェックした。先ほど受け取ったばかりの短文メールを読んだ望月はクスリと笑い、片方の耳にイヤホンをはめた。
観月尚美はリビングのソファーに寝転がってTVのチャンネルを次々切り替えていた。地上波、BS、CS、どの番組にもまるで興味が沸かない。というより今の観月を惹きつけるのはどんな名作映画や爆笑バラエティにも不可能なミッションだ。
心ここにあらず。
観月にとって目の前の液晶画面が映し出すどんな映像も素人が描いた出来の悪いパラパラ漫画に過ぎなかった。
「あんた最近悩み事があるでしょ」
背後から突然聞こえた声に反応して観月はガバッと身を起こした。
「お姉ちゃん」
パンツ一丁にバスタオルを首からかけただけの、あんまりといえばあんまりな風呂あがりスタイル。父親が単身赴任中で女しかいない観月家だからこそ可能な姿で姉が立っていた。
「なになに、例のカレの事で悩んでんの?」
観月の顔がカッと熱くなる。
「べ、別に九澄のことなんか気にしてないわよ!」
「そうそう、その九澄君。そろそろキスぐらいは済ませたわけ?」
「キ、キキキキキ……」
観月の顔はいよいよ焼けた鉄のように真っ赤に染まる。姉はその様子を見て大げさに溜息をついた。
「その様子じゃ進展なしみたいね。まったく、男一人落とすのにいつまでかかってんのよ情けない。とてもあたしの妹とは思えないわ」
「お、お姉ちゃんみたいにはなりたくないわよ!」
姉は顔立ちこそ妹によく似ているが性格は随分違う。少なくとも尚美は、自分が大学生になったとしてもヘソにピアスをつけたり髪の毛をメッシュ染めしたり財布にコンドームを常備するようになるとは思っていない。とはいえ姉のことが嫌いなわけでもない。姉は昔からいつも尚美には優しかった。同時に少々お節介でもあった。
「いい、男なんてもんはちょっと色目を使ってやればホイホイってついてくんのよ。所詮は猿よ猿。あんた可愛いんだから女の武器を使えばいいって言ってんの」
「だ、だから、九澄のことじゃないって言ってるでしょ! もう! 関係ないからあっち行っててよ!」
やれやれとでも言いたげに姉は肩をすくめた。男嫌いだった妹がようやく色気づいたと思ったらこの調子だ。いっそ九澄とやらに連絡をとって妹を強引に押し倒せとでも言ってやろうかなどとロクでもないことを考えていると、その妹がうつむきながらボソボソとしゃべりはじめた。
「あ、あのさあ……お姉ちゃんは、もし好きな人が嘘ついてるかもって思ったらどうする?」
「なになに? 浮気してるって話?」
姉が目を輝かせる。
「い、いや、浮気とかそういうのじゃなくて……」
「よねえ。付き合ってもいないのに浮気はできないもんねえ」
「だからその……一度疑わしく思ったら何もかも疑わしく思えてきて……何を信じたらいいのかわからなくて……でも本人には聞きたくなくて……その……ええっと……」
「尚美……あんた……」
姉が真剣な顔で尚美ににじり寄る。次の瞬間姉は勢い良く妹を抱きしめた。
「可愛い~~~!!」
「???」
何が姉のツボにはまったのか尚美にはまるでわからなかった。
「あんたもとうとうそういうことに悩むようなったのね! お姉ちゃん嬉しい!」
「へ、変なことで喜ばないでよ!」
「だってー、あんたの年にはあたしは15人ぐらいはケーケン済みだったのに、あんたってばそういうの全然ウブなんだもん。お姉ちゃんとしては心配になっちゃうわよ」
「じじじじじ、15人……? 高一で……?」
想像を絶する数字に尚美の思考が固まる。
「いーい尚美、サイコーの解決方法を教えてあげる」
「サイコーの解決法……?」
姉は満点の笑顔とともに力強く言い切った。
「エッチすればいいのよ! エッチすれば男の本性なんてまるわかりなんだから!」
「できるかーーーーー!!!!」
尚美は絶叫した。
「あ、でも避妊だけはちゃんとしときなさいよ。いやーこないだ生理が遅れた時は怖くて怖くて……」
「もういいからあっち行って! お姉ちゃんのバカ!」
姉を振りほどきクッションを思い切り投げつける。姉はそれを受け止めて「初体験の感想は聞かせてねー」と笑いながら軽やかに去って行った。残された尚美はドサリとソファーに倒れこむ。酷く疲れた。
「はあーっ、お姉ちゃんは全然役に立たないし、どうすればいいんだろう」
自分一人ではいくら考えても答えが出そうにない。かといって魔法を知らない人間に相談しても時間の無駄だ。かといって聖凪の誰かに相談するとしても、「九澄大賀は魔法が使えないのでは?」なんて誰に言っても信じてもらえそうにない。いや待て、そもそも九澄は魔法が使えないという疑問は正しいのか?
観月は九澄が魔法を使ったことがあることを知っている。例えば彼と初めて出会った日、ホーレンゲ草を取りに行った洞窟でのこと。九澄は地図もない複雑な洞窟の中で最奥部までの道順を難なく見つけ出し、トラップもことごとく見破ってみせた。魔法もなしにそんな事は――
(違う……不可能じゃない!)
ルーシー。九澄はあの洞窟でマンドレイクの少女ルーシーと出会っていた。ルーシーはあの洞窟の住人だ。彼女の助力があれば洞窟の構造など全て筒抜けだったのではないか? だとすれば九澄がルーシーのことを徹底的に隠していたことも説明がつく。文化祭の時に愛花と自分に見つかっていなければ、九澄は今も彼女の存在をひた隠しにしていただろう。
クラスマッチはどうだ? 自分と小石川に囲まれた時、九澄は魔法を一切使うことなく機転と駆け引きでその場を制してみせた。その時自分は九澄との器の違いを思い知ったが、もし九澄が魔法を使えないのだとしたらあの行動こそ九澄が取れる唯一の手段だったことになる。気味が悪いほど辻褄が合ってしまうのだ。だが一つ問題がある。大門との一騎打ちになった時、九澄は大門の攻撃を何らかの防御魔法で防いだのだという。大門本人がそう言っていたのだからこれは間違いないはずだ。この一点を持って疑惑は否定されたと言えるのではないか――
(いいえ、騙されたらダメよ!)
その時大門が使ったのは遠距離からの弓による射撃だ。九澄が具体的に何をしたのか大門にもわかっていない。その上九澄は自分が攻撃する際にはやはり魔法を使わず素手で風船を割って勝利したのだそうだ。実に怪しい。疑惑解消と言うには早すぎるではないか。
(とはいえ……)
観月は溜息をついた。いくら理屈をこねまわしたところでこの仮説には大きな欠陥があるのだ。
(あたしはこの目で九澄の魔法を見ちゃってるのよね……)
割と最近、九澄が学校の廊下で大暴れしたことがある。小石川を一蹴し大門もまとめて説教臭いことを言ったあげく――
(あ、あたしを抱きかかえて……お、おおお、お姫様抱っこ……)
観月はその時の感触をいつでも鮮明に思い出すことができた。そのたびに全身がぽうっと熱くなり切ない気分になる。いつしか観月の手は自分の股間へと伸びていき――
(って、そんなことしないわよ!!)
観月は首を振って我に返った。
話はそこで終わらない。あの男は様子を見に来た柊先生に向かってあろうことかタメ口を聞き、お前呼ばわりで命令、そして当然即怒りのボルテージを上げた先生に対し、あの男は何やらスゴイ魔法を使って自分の力を誇示してみせた。その結果なんと先生は途端に大人しくなり、九澄をどこか、確か校長室だったか、言われるがままの場所に連れて行ったのである。柊先生ですら本気の九澄には逆らえない。その噂は一瞬で広まり、九澄に挑もうとする者はますますいなくなった。この事件がある以上九澄は魔法を使えないなどという説は単なる戯言にすぎない。だが観月はどうしても納得しきれなかった。
(そう……あの時の九澄はどこか……というか何もかもが変だった……あいつがあたしを意味なく抱き上げたりする? 挑発のために魔法を使ったりする? 自分のことを「ボク」って呼んだりする? あの時はああいう強気な九澄もいいかもって思ったけど……やっぱり絶対に変!)
今思えばあの時の九澄は別人だったのではないか。柊先生が逆らえなかったのもその正体に気付いたからではないか。つまり、柊先生より偉い誰かだと。
(でもそれも変……そんな人がどうして九澄に化ける必要があるんだろう。それ以前に、あれはやっぱり九澄……あたしがあいつの顔を見間違えるわけがない……あれが九澄なのは間違いない……だけどやっぱりおかしい……九澄なのに九澄じゃない……それってどういうこと……?)
頭が痛くなってきた。もとよりあれこれと考えるのは得意ではない。熱いコーヒーでも飲もう。そう考えて観月が立ち上がったその時、それは聞こえた。
『この二重人格野郎!!』
観月ははっと振り返る。テレビの中で厚化粧の女優がそう叫んで男をなじっていた。テレビドラマのワンシーンだ。
(二重……人格……?)
ドラマの中でその言葉は主役の男の裏表ある性格のことを指していた。だが観月の脳裏にその言葉の別の意味が浮かび上がる。ジキルとハイド。本当の意味での二重人格。全く異なる2つの自我が一人の人間の中に存在すること。
(もしかしてこれって……!)
####
翌日の放課後。
「あたしに相談?」
観月に話しかけられた氷川今日子は眉一つ動かさず答えた。観月は薬品部の仕事上頻繁に執行部に出入りしているので顔見知りではあったが、ほとんど話をしたことはない。そういう人から相談を持ちかけられれば面食らうのは当然だ。氷川は感情を顔に出さないタイプだったが、多少なりとも驚いていることはポカンと開いた口から見て取れる。
「う、うん……時間あるかな……?」
観月は遠慮がちに尋ねる。
「悪いけど執行部の仕事と、それが終わったら塾があるから……だけどどうしてあたしなの?」
氷川は当然の疑問を発した。相談事ならもっと仲の良い友人を選ぶのが普通だろう。まさか友達がいないというわけでもあるまい。
「えっと……つまり相談の内容ってのが問題で……ある人のことを良く知ってて、口が堅くて頭も良い人っていうのが氷川さんしか思いつかなくて……」
氷川は九澄と同じ執行部員でクラスも同じC組。当然何かと接点は多いだろう。もちろんもう一人該当する人物がいるが、こと九澄のことに関してその人物に相談するのは絶対に避けたかった。なんというか、とにかく嫌だった。
「もしかして九澄くんの話?」
「えっ!?」
観月の心臓が跳ね上がる。その様子を見て氷川はふんふんと一人納得した。
「ど……どうして九澄のことだって……」
「いや、とある情報筋からあなたが九澄くんのことを好きだって聞いてね。それでもしかしたらと思ったんだけど」
「と、とある情報筋って……」
「ああ気にしないで、そんなに噂が広まってるってわけじゃないから。そういうのに目ざといゴシップ男がうちのクラスにいるってだけの話。たまたま九澄の話になった時に聞いたんだけど、あんまりそういうのを言いふらすなとは言っておいたわ」
どこか遠くで伊勢カオルがくしゃみをした。
「で、恋愛相談だったらあたしは不適格だと思うけど」
「ち、違うの。そういうのじゃないのよ。なんて言ったらいいのか……とにかくもっと違う話。こう……複雑で信じがたい話、頭おかしいんじゃないのって言われるような話なんだけど……」
氷川はしばらく考えこんでからふむ、と前置きした。
「そういうことならあたしより適格な相手が一人」
「え?」
「男子でも良ければ」
氷川が上げた人物の名を観月は知らなかった。男子というのも観月にとってはハードルが高かったが、氷川が適格と言うのだからともあれ一度会ってみることにした。今はとにかく話を聞いてくれる人間が欲しかった。
####
「そろそろ来ると思ってたよ」
生徒会本会議室。生徒会長である望月悠理が机に肘をついたまま微笑んだ。目の前に立っているのは見るからに不機嫌な感情をにじませた男。
「てめーに話がある」
「そんな怖い顔しないでよ、男前が台無しじゃない」
望月がおどける。男の額に血管が浮かぶ。
「ふざけたマネもいい加減にしやがれっつってんだ」
静かな、しかしただならぬ怒りのこもった低い声。並の者ならそれだけで縮み上がってしまうかもしれない。しかし望月はますます嬉しそうに目を細めた。
「まあまあ落ち着こうよ。話ならお茶でも飲みながらゆっくりとさ。そう思わない? 伊勢くん」
伊勢聡史。一年C組伊勢カオルの兄にして、二年生屈指の実力者と言われる一匹狼。彼は一人『敵陣』の中にいた。会長席に座る望月と、机越しに彼女と向かい合う伊勢、そしてその伊勢を後ろから見張る会長補佐の二人。ちょうど伊勢一人を二等辺三角形の陣で囲む形になっている。もちろん伊勢はそれを承知で対決姿勢をあらわにしていた。
「茶はいらねー。てめーの出した茶なんざ、何が入ってるかわかったもんじゃねーからな」
「あーらら、信用されてないなあ、あたし」
「んな事ァどうでもいい。例の聖凪杯とかいうふざけたイベントのことだ。なぜてめーが二年生の代表になっている!?」
伊勢は大会告知のチラシを机の上に叩きつけた。その隅に小さく、二年生代表望月悠理と書いてある。
「二年生最強っつったら俺か永井だろうが!! てめーの出る幕じゃねーよ! ていうかてめー主催者側じゃねーか!!」
伊勢が一気にまくし立てた。まさに怒り心頭といった面持ちだ。
「そりゃあまあワールドカップの開催国枠みたいなもんで。それに永井くんは同意してくれたよ? 伊勢くんだってこんなイベントにどうしても出たいってわけじゃないんでしょ?」
「大会自体はどうでもいいがてめーの好き勝手にされるのは我慢できねーんだよ」
「なんと立派なご意見」
望月が肩をすくめる。一切緊張感を感じさせないその態度にいよいよ伊勢のフラストレーションがグツグツと煮え立つ。伊勢は相手のペースに乗せられないために大きく深呼吸し、それから天井を指さした。
「ゴチャゴチャ口論しても埒が明かねーな。屋上に来い、白黒つけよーじゃねーか」
「あたしが? 伊勢くんと? なーに、愛の告白?」
望月はわざとらしく両手で顔を覆ってキャ~照れる~などとはしゃいでみせた。
「なわけねーだろ!!! バトルでケリつけようっつってんだ!!!」
伊勢は机を思い切り叩く。かなりの轟音が響いたが望月はまるで動じずニヤニヤと伊勢を見上げた。
「確かに"力"では伊勢くんのほうが上でしょうね。でも、勝てないよ。"力"じゃあ勝てないよ。三年生や九澄くんにはもちろん、あたしにも、後ろの二人にもね」
「ああ?」
伊勢は首をひねって背後に立つ二人を睨みつける。瓜二つの美形顔を持つ双子の男女。二年生では名の知れた巴ツインズだ。どちらが兄だか姉だか伊勢は知らないが。
「俺や永井よりお前やこの二人の方が強えって言いたいのか?」
伊勢にとっては到底認めがたい発言だった。巴ツインズが有名なのはあくまでその特徴的な外見のため。魔法の実力が高いなどという話は聞いたことがない。望月悠理にしても、生徒会長という肩書き以上の何かがあるとは思われていない。あくまで彼女の得意分野は頭脳労働のはずだった。一方で伊勢や永井は平均レベルの二年生相手なら4、5人まとめて倒せるだけの力を持っている。この3人を同時に相手にしても決して不利ではないと伊勢は確信していた。
「強いってのとはちょっと違うかな……"強い"のは伊勢くん。でも"戦って勝つ"のはあたし達。猛獣がずっと非力な人間に狩られるようにね」
望月はさも当然の事実を述べているまでといった風にサラリと言ってのける。伊勢の頭の中で何かが切れた。
「……ここまでムカついたのは永井の帽子にコケにされた時以来だぜ……。おい、とにかく屋上に上がれ。まとめてスクラップにしてやる」
「三対一じゃちょっとこっちに有利すぎるなあ。こうしようよ、伊勢くんはその二人と戦う。巴ツインズは二人で一人。二対一で君が勝ったらあたしはおとなしく出場権を譲るよ」
「ハ……こんな時まで人任せたァてめーらしいこった。おい、てめーらはそれでいいのか?」
伊勢は双子の方を向いて尋ねる。
「一向に構わないよ」と巴♂。
「ええ、凄く楽しみ」と巴♀。
表情や手の動きまで不気味にシンクロしている。伊勢はそれを見て顔を引きつらせた。こんな気持ち悪い連中にこれ以上付き合っていられない。秒殺だ。中学時代から喧嘩慣れしている伊勢は即座にファイトプランを固めた。打倒九澄のために磨き上げた新魔法、それで即終わらせる。
望月は伊勢の背中を見送りながら携帯の受信メールをチェックした。先ほど受け取ったばかりの短文メールを読んだ望月はクスリと笑い、片方の耳にイヤホンをはめた。
2012年7月1日日曜日
エムゼロEX 9
第九話 九澄大賀vs新宮一真
三年生最悪の問題児と名高い新宮一真と、その彼女と言われる紀川沙耶〈きのかわさや〉は一年生校舎の廊下を並んで歩いていた。
新宮が懐かしそうにあちこちを見渡す一方で紀川は鉄面皮のままである。
二人が廊下に出ているのはC組にいた何人かの男子から九澄大賀は執行部分室にいると聞いたからだ。
「それにしてもあの男はイカれていたな。
目の前にテレポートしてきた奴を自分が召喚したなんて思うかね?」
紀川は答えない。
そのうち二人は目的地に辿り着いた。
「さて、ここが分室とやらか……。
去年まではこんなもんなかったってのに、連中ますます増長してやがる」
新宮が不愉快そうに吐き捨て、ノックもなしに勢い良くドアを開けた。
中にいた数人の視線が二人に注がれる。
「九澄大賀っての、どいつだ」
書類に目を通していた氷川は突然の闖入者に呆気にとられた。
見覚えのない二人、ネクタイのストライプからして三年生。
以前会った執行部の三年生とは明らかに別人。
ならばこの二人は誰だ?
「九澄は今、外で仕事中ですが」
努めて冷静に振る舞う。
相手の意図が読めない以上それを引き出さなければ。氷川はそう判断していた。
「なんだタライ回しかよ。
ここで待ってりゃ帰ってくるのか?」
「ええ、恐らく」
「じゃあ待たせてもらうぜ」
「あの……九澄に何か?」
「答える義務はねえな」
「じゃあせめて名前ぐらいは教えて下さい」
「……新宮一真」
その名を呼んだのは本人ではなかった。
氷川の背後、か細い男の声。
「……え?」
振り返るとそこには影沼がいた。
普段温和なその男が怖い顔で新宮を睨みつけている。
「へえ、俺を知ってるのかい」
「……有名人ですから」
「そいつは光栄だ。……と、そう怖い顔すんなよ。
お前にゃ用はねえ」
氷川は影沼の不自然な態度をいぶかしんだ。
相手のほうは影沼を知らないようだが、何かあったのだろうか。
「おい、あの人なんなんだ?」
竹谷が影沼に尋ねる。
「狂犬、鉄腕などとも呼ばれている三年生の問題児。
打倒執行部長夏目琉を公言している男」
「打倒執行部長……? あんたあのバケモンをぶっ倒すつもりってことか!?」
竹谷の問いに新宮は不敵な笑みで返した。
「ははは……さすが三年生は半端じゃねえな。
九澄はこんな連中と張り合うってことか」
「俺がどうかしたか?」
「「!!!」」
部屋の入口、二人の三年生の後ろに九澄がひょっこりと現れた。
「九澄!」
「へえ……こいつか」
新宮が九澄に顔を向けニヤリと笑う。
九澄はキョトンとした顔で目の前の見知らぬ男を観察した。
背丈は自分よりはっきりと高い。180前半はあるだろう。
そして制服の上からでもわかる均整のとれた筋肉。決して必要以上に太いわけではないが、絞りこまれ鍛えあげられている。
何より獲物を狙う猛獣のような眼と纏う空気が、他の誰とも異質だった。
その時新宮の目つきが一瞬変わる。
殺気。
刹那、九澄はゾクリとするような危険を感じ反射的に後ろに飛び退く。
無意識のうちに冷や汗が流れ拳が握られていた。
「お前……なんだ……?」
「へえ、勘の良い奴だ。なるほど頭でっかちの雑魚ではないらしい」
新宮は九澄に対して半身に立ちゆらりと力を抜いて「構え」た。
「怪物一年生なんだろ? ちょいと喧嘩しようぜ」
「ちょ……! おれと魔法バトルするつもりかよ!?」
「ああ」
(冗談じゃねー!! 昨日の今日でまだ全然レベルアップしてねーんだぞ!
今ここで戦えるわけがねえ!)
落ち着け、今まで何度も似たようなことはあった。
九澄は自分に言い聞かせる。
ここは落ち着いて戦いを回避する。それしかない。
「やめとけよ、反省文じゃ済まねえぜ?」
「そいつは俺がとっ捕まったらの話だろう?」
「……そういう過信は良くねえぜ。それによ、俺は喧嘩のために魔法は使わねえんだ。
どうしてもバトルがしたいならいっそ素手で受けてやろうか? ……なーんてな」
その提案の言葉は本心から出たものではない。
なるべく会話を引き伸ばして煙に巻くための駆け引きだ。
だが新宮は何がツボにはまったのか、腹を抱えて大笑いしだした。
その不可思議な姿に九澄も他の執行部員も呆気にとられてしまう。
「はっはっは! こいつはいい! 喧嘩なら素手でやろうぜってか!」
「な、何がおかしいんだよ」
新宮は笑いを止め、嬉しそうな顔で上着の内側に手を突っ込んだ。
「何もおかしくねえさ……お前の言う通りだ」
上着の内ポケットから新宮が出したものは紛れもなく魔法プレートだった。
九澄は魔法発動に備え身構えるが、新宮はあろうことかそれを無造作に後ろに放り投げてしまう。
「男と男の喧嘩に、こんなもんは不要だ」
投げられたプレートを紀川が無言で受け止めるのと新宮が九澄に向かって飛び出すのはほとんど同時だった。
大げさに振りかぶっての右ストレート、とっさに九澄はそれを左手で弾こうとする。
だが直後左のボディブローが九澄の脇腹に刺さる。
(――フェイント!)
一瞬呼吸が止まりわずかに背を曲げた九澄の顔面目掛けて打ち下ろすような右。
九澄は腰をかがめ左に跳躍してそれをかわす。
空振りでも背筋が凍る様な強打。
(こいつ――強え!!)
単に体格があって運動神経もいいというだけのレベルではない。
明らかに格闘技や武術の修練を積んだ動き。
新宮は間髪入れずに九澄を追い、息つく間もないほどの連打を浴びせる。
左、左、右、左、右。
九澄は必死でそれらを捌きつつ横にかわそうとするが、新宮は九澄の動きを読んでいるかのような足運びで間合いを支配する。
壁を背にしている九澄には後ろへの逃げ場はない。
顔面への被弾だけは防ぐ九澄だが腹や腕に鈍い痛みが走る。
(すげえ連打だ、しかも速え、カウンター撃つ暇もねえ!
……いや待て、さっきからこいつの攻撃はパンチばかり……フォームから見てもこいつはボクサーか!)
九澄は一瞬左のパンチを打ち返す仕草をする。
だがそれはフェイントだった。
(ボクサーなら脚への攻撃は受けられねえだろう!)
姉から学んだ空手の動き、その基本技にして強力無比な技の一つ、左の下段回し蹴り(ローキック)。
帯は持たずとも有段者に劣らない力を持つ九澄のその鋭い蹴りは、しかし新宮が右脚を軽く上げたことで簡単にカットされてしまう。
「甘えよ」
九澄の顔面が跳ね上がる。
一瞬視線が下に寄っていた九澄には、それが何の攻撃なのかわからなかった。
上のガードを固め追撃に備えた九澄に対し、新宮は鋭く距離を詰め、膝蹴り。
みぞおちに衝撃が走り九澄がうめき声を上げる。
腰が落ち、胃液が逆流し肺が悲鳴を上げる。
みぞおちとは呼吸の要である横隔膜がある場所なのだ。
そのまま倒れてもおかしくないほどの苦しみの中で、九澄はしかし歯を食いしばって膝に力を入れる。
相手より背の低い自分が更に低い姿勢になっているこの状況。
膝蹴りが当たるほど距離が詰まっているこの状況。
それは反撃のチャンスだった。
頭。
もっともシンプルで強固な攻撃。
九澄の頭頂部が新宮の顔を跳ね上げた。
金属バットで大木を叩いたような乾いた打撃音とともに新宮が大きく後退する。
体勢を崩し鼻から血を流す新宮に九澄は追撃の打拳。
全力を込めた右拳は、それを受けようとした相手の手の平ごと顔面を撃ちぬいた。
新宮が腰を落とし後退する。
「すっ、すっげえ……!」
竹谷が唸った。
格闘技に縁がない彼にとって目の前の殴り合いは別次元だった。
魔法なしでもこれほど激しい戦いができるものなのか。
ひょっとすると自分は魔法なしの彼らにも負けるのではないか……?
そんな考えが頭をよぎる。
(いける、一気にケリを付けてやる!)
九澄が距離を詰める。
中腰になっている新宮の頭に狙いをすまし左の回し蹴り。
当たれば一気に戦いを終わらせる完璧な蹴り。
だが止まる。
新宮の両腕ブロック。
逆に九澄の体勢が崩れる。
そこから鞭をしならせるような左の裏拳が九澄の眼上を叩き、鈍い痛みを与える。
直後、両者が同時に斜め後方に跳び数メートルの距離が開いた。
九澄は肩で息をしながらも構えを崩さず相手を見据える。
戦いを見守る執行部員たちは皆息を呑んだ。
「……二人共なんて動きしやがる……」
「どうりで九澄が魔法を使わなくても充分やっていけるわけね……」
竹谷も氷川も驚きを隠せなかった。
影沼は口を固く結んだまま冷や汗を流していた。
「やるじゃねえかホントに……。
正直言ってこんな楽しい戦いになるとは思ってなかったぜ」
新宮が鼻血を手で拭いつつ口の端をつり上げる。
「何が楽しいだ……こんな無意味な喧嘩痛いだけだっつーの……」
九澄は喧嘩そのものを楽しむタイプでは全くない。
強くなった理由も環境(主に姉)による要因が非常に大きいといえる。
だが目の前の相手は明らかに殴り合いを楽しんでいた。
「まだ燃え足りねえだろう……?」
新宮が禍々しい笑みを浮かべる。
瞬間九澄の背にゾクリとした悪寒が走る。
直後新宮は九澄に向かって一気に踏み込んだ。
「それじゃあちょいとギア上げていくぜ!!」
左のジャブ、いやジャブと呼ぶにはあまりにも重く、強い。その連打。
一切の予備動作無しに打ち込まれるそれらが九澄の顔面と腹を次々に叩いた。
叩いた。
叩いた。
更に左のミドルキック。
ガードの上からでも腹まで突き抜ける衝撃に九澄の顔が歪む。
(こいつ……今まで本気じゃなかったのかよ!)
明らかに攻撃の重さが一段上がっていた。
九澄がサイドに距離を取ろうと踏み込みかけた瞬間、大外からの右フックが九澄の顎を打ち抜く。
脳が揺れる感覚。全身に痺れが走り、膝から力が失われる。
倒れる。
駄目だ。
倒れない。
倒れない!
九澄は無我夢中で新宮の胴体に抱きついていた。
タックルにも似た体勢だが、ただ倒れないためにすがりついただけだ。
新宮は肘を上げて落とし九澄の背中に突き刺す。
九澄はうめき声を上げながら両腕の力を緩めない。
今突き放されれば確実にやられる。
体が回復するまで、せめてあと10秒。
九澄は自由の効かない脚で精一杯踏み込み、自分の体ごと新宮を壁に打ちつけた。
鈍い音が響き新宮が口を歪める。
だが直後に新宮は腕を九澄の首に巻き付けヘッドロックのような体勢を作り一気に力を込め絞り上げた。
首への激痛で一瞬九澄の力が弱った瞬間を逃さず、九澄を振りほどき放り投げた。
「はあっ! はあっ!」
九澄は構え直しながらも大きく呼吸を乱す。
さっきとは疲労とダメージの量がまるで違う。
それほどあの右フックの一撃は強烈だった。
(くそうどうする……このままじゃあ……)
九澄に弱気が生じたその時だった。
「こらあ!! お前らそこで何してる!!」
声の主を見ればそれはこちらに駆け寄ってくる小男、大木先生だった。
その後ろには百草先生もいる。
「無許可で魔法バトルをするなとどれほど言ったら……!
これだから生徒だけには任せておけんのだ!」
怒り心頭の大木は、しかし新宮と目が合うやギョッと顔を引きつらせた。
「お、お前は新宮……!
なんでお前がここにいる、三年生はこっちの校舎に来るなと言われているはずだ……」
新宮は戦闘モードを解き余裕の表情で肩をすくめる。
「固いこと言わんでくださいよ、去年まで通っていた校舎じゃないすか。
ていうか大先生、ますます縮んだんじゃないすか?」
「う、うるさい。お前がでかくなっただけだ……」
腰が引けている大木を見て九澄は違和感を覚える。
(なんだ? 大先生、もしかしてビビッてんのか?)
怪訝に思ったのは百草も同様のようで、大木を見下ろしながら眉をひそめている。
「あの……大木先生……」
「と、とにかく! 一年の校舎で魔法バトルなど許さんと言ってるんだ!」
「魔法は一切使ってないすよ。素手でやりあってただけっすから」
「ええいどっちでも同じだ! とっとと帰れ!!」
「へいへい、それじゃあ大先生の顔を立てておきましょうかね」
新宮は分室の入り口でずっと直立不動のまま成り行きを見ていた紀川に歩み寄る。
「つーわけだ。帰ろうぜ」
紀川は注視しなければわからないほどほんのわずかに頷き、新宮の肩に手を置いた。
「ああそうだ九澄。お前の力は認めてやる。
次にやりあうときはお互いに魔法アリ、出し惜しみはナシだぜ」
新宮は嬉しそうに笑って拳を突き出した。
二人は赤いもやに包まれ、消えた。
場にはしばらく沈黙が漂ったが、百草がそれを破って九澄に駆け寄った。
「大丈夫なの、九澄くん?」
「あ、ああ。平気だよ、センセ」
「すっげえ喧嘩だったんだぜ。プロの格闘技みて~にハイレベルな互角の攻防でよ……」
竹谷が素人丸出しのフォームでパンチやキックを再現した。
「互角……ね……」
そう呟いた九澄の膝がガクンと曲がり、床に手がついた。
顔は苦痛に歪み口からは血がにじんでいる。
「ちょっと、九澄くん?」
「平気だって……自分で保健室行くからさ」
九澄はよろよろと立ち上がり歩き出した。
全身に痛みが残り、体重が倍になったかのような感覚だった。
人の視線から外れた階段の踊場まで辿り着いたところで歩みが止まる。
大木と話している時の新宮のひょうひょうとした様子が頭をよぎった。
(あの野郎まだ余裕で力を残してやがった……。
あのまま続けていたら間違いなく……ちくしょう、聖凪にあんな奴がいたなんてな。
無駄にバケモン揃いだぜここは……)
窓の外はどんよりと雨雲が広がり、今にも降り出しそうだった。
赤く腫れ上がった拳を強く握る。
ギリギリと歯を食いしばり、知らぬ間に下を向いていた顔を前に上げる。
(強く……ならねえと……。
大会に出ようと出まいと関係ねえ。
あんな奴らがいるこの学校に居続けたいのなら……)
そしていつか本物のゴールドプレートを手にして柊の夢を叶えるために。
九澄は力強く地面を踏みしめ歩き出した。
三年生最悪の問題児と名高い新宮一真と、その彼女と言われる紀川沙耶〈きのかわさや〉は一年生校舎の廊下を並んで歩いていた。
新宮が懐かしそうにあちこちを見渡す一方で紀川は鉄面皮のままである。
二人が廊下に出ているのはC組にいた何人かの男子から九澄大賀は執行部分室にいると聞いたからだ。
「それにしてもあの男はイカれていたな。
目の前にテレポートしてきた奴を自分が召喚したなんて思うかね?」
紀川は答えない。
そのうち二人は目的地に辿り着いた。
「さて、ここが分室とやらか……。
去年まではこんなもんなかったってのに、連中ますます増長してやがる」
新宮が不愉快そうに吐き捨て、ノックもなしに勢い良くドアを開けた。
中にいた数人の視線が二人に注がれる。
「九澄大賀っての、どいつだ」
書類に目を通していた氷川は突然の闖入者に呆気にとられた。
見覚えのない二人、ネクタイのストライプからして三年生。
以前会った執行部の三年生とは明らかに別人。
ならばこの二人は誰だ?
「九澄は今、外で仕事中ですが」
努めて冷静に振る舞う。
相手の意図が読めない以上それを引き出さなければ。氷川はそう判断していた。
「なんだタライ回しかよ。
ここで待ってりゃ帰ってくるのか?」
「ええ、恐らく」
「じゃあ待たせてもらうぜ」
「あの……九澄に何か?」
「答える義務はねえな」
「じゃあせめて名前ぐらいは教えて下さい」
「……新宮一真」
その名を呼んだのは本人ではなかった。
氷川の背後、か細い男の声。
「……え?」
振り返るとそこには影沼がいた。
普段温和なその男が怖い顔で新宮を睨みつけている。
「へえ、俺を知ってるのかい」
「……有名人ですから」
「そいつは光栄だ。……と、そう怖い顔すんなよ。
お前にゃ用はねえ」
氷川は影沼の不自然な態度をいぶかしんだ。
相手のほうは影沼を知らないようだが、何かあったのだろうか。
「おい、あの人なんなんだ?」
竹谷が影沼に尋ねる。
「狂犬、鉄腕などとも呼ばれている三年生の問題児。
打倒執行部長夏目琉を公言している男」
「打倒執行部長……? あんたあのバケモンをぶっ倒すつもりってことか!?」
竹谷の問いに新宮は不敵な笑みで返した。
「ははは……さすが三年生は半端じゃねえな。
九澄はこんな連中と張り合うってことか」
「俺がどうかしたか?」
「「!!!」」
部屋の入口、二人の三年生の後ろに九澄がひょっこりと現れた。
「九澄!」
「へえ……こいつか」
新宮が九澄に顔を向けニヤリと笑う。
九澄はキョトンとした顔で目の前の見知らぬ男を観察した。
背丈は自分よりはっきりと高い。180前半はあるだろう。
そして制服の上からでもわかる均整のとれた筋肉。決して必要以上に太いわけではないが、絞りこまれ鍛えあげられている。
何より獲物を狙う猛獣のような眼と纏う空気が、他の誰とも異質だった。
その時新宮の目つきが一瞬変わる。
殺気。
刹那、九澄はゾクリとするような危険を感じ反射的に後ろに飛び退く。
無意識のうちに冷や汗が流れ拳が握られていた。
「お前……なんだ……?」
「へえ、勘の良い奴だ。なるほど頭でっかちの雑魚ではないらしい」
新宮は九澄に対して半身に立ちゆらりと力を抜いて「構え」た。
「怪物一年生なんだろ? ちょいと喧嘩しようぜ」
「ちょ……! おれと魔法バトルするつもりかよ!?」
「ああ」
(冗談じゃねー!! 昨日の今日でまだ全然レベルアップしてねーんだぞ!
今ここで戦えるわけがねえ!)
落ち着け、今まで何度も似たようなことはあった。
九澄は自分に言い聞かせる。
ここは落ち着いて戦いを回避する。それしかない。
「やめとけよ、反省文じゃ済まねえぜ?」
「そいつは俺がとっ捕まったらの話だろう?」
「……そういう過信は良くねえぜ。それによ、俺は喧嘩のために魔法は使わねえんだ。
どうしてもバトルがしたいならいっそ素手で受けてやろうか? ……なーんてな」
その提案の言葉は本心から出たものではない。
なるべく会話を引き伸ばして煙に巻くための駆け引きだ。
だが新宮は何がツボにはまったのか、腹を抱えて大笑いしだした。
その不可思議な姿に九澄も他の執行部員も呆気にとられてしまう。
「はっはっは! こいつはいい! 喧嘩なら素手でやろうぜってか!」
「な、何がおかしいんだよ」
新宮は笑いを止め、嬉しそうな顔で上着の内側に手を突っ込んだ。
「何もおかしくねえさ……お前の言う通りだ」
上着の内ポケットから新宮が出したものは紛れもなく魔法プレートだった。
九澄は魔法発動に備え身構えるが、新宮はあろうことかそれを無造作に後ろに放り投げてしまう。
「男と男の喧嘩に、こんなもんは不要だ」
投げられたプレートを紀川が無言で受け止めるのと新宮が九澄に向かって飛び出すのはほとんど同時だった。
大げさに振りかぶっての右ストレート、とっさに九澄はそれを左手で弾こうとする。
だが直後左のボディブローが九澄の脇腹に刺さる。
(――フェイント!)
一瞬呼吸が止まりわずかに背を曲げた九澄の顔面目掛けて打ち下ろすような右。
九澄は腰をかがめ左に跳躍してそれをかわす。
空振りでも背筋が凍る様な強打。
(こいつ――強え!!)
単に体格があって運動神経もいいというだけのレベルではない。
明らかに格闘技や武術の修練を積んだ動き。
新宮は間髪入れずに九澄を追い、息つく間もないほどの連打を浴びせる。
左、左、右、左、右。
九澄は必死でそれらを捌きつつ横にかわそうとするが、新宮は九澄の動きを読んでいるかのような足運びで間合いを支配する。
壁を背にしている九澄には後ろへの逃げ場はない。
顔面への被弾だけは防ぐ九澄だが腹や腕に鈍い痛みが走る。
(すげえ連打だ、しかも速え、カウンター撃つ暇もねえ!
……いや待て、さっきからこいつの攻撃はパンチばかり……フォームから見てもこいつはボクサーか!)
九澄は一瞬左のパンチを打ち返す仕草をする。
だがそれはフェイントだった。
(ボクサーなら脚への攻撃は受けられねえだろう!)
姉から学んだ空手の動き、その基本技にして強力無比な技の一つ、左の下段回し蹴り(ローキック)。
帯は持たずとも有段者に劣らない力を持つ九澄のその鋭い蹴りは、しかし新宮が右脚を軽く上げたことで簡単にカットされてしまう。
「甘えよ」
九澄の顔面が跳ね上がる。
一瞬視線が下に寄っていた九澄には、それが何の攻撃なのかわからなかった。
上のガードを固め追撃に備えた九澄に対し、新宮は鋭く距離を詰め、膝蹴り。
みぞおちに衝撃が走り九澄がうめき声を上げる。
腰が落ち、胃液が逆流し肺が悲鳴を上げる。
みぞおちとは呼吸の要である横隔膜がある場所なのだ。
そのまま倒れてもおかしくないほどの苦しみの中で、九澄はしかし歯を食いしばって膝に力を入れる。
相手より背の低い自分が更に低い姿勢になっているこの状況。
膝蹴りが当たるほど距離が詰まっているこの状況。
それは反撃のチャンスだった。
頭。
もっともシンプルで強固な攻撃。
九澄の頭頂部が新宮の顔を跳ね上げた。
金属バットで大木を叩いたような乾いた打撃音とともに新宮が大きく後退する。
体勢を崩し鼻から血を流す新宮に九澄は追撃の打拳。
全力を込めた右拳は、それを受けようとした相手の手の平ごと顔面を撃ちぬいた。
新宮が腰を落とし後退する。
「すっ、すっげえ……!」
竹谷が唸った。
格闘技に縁がない彼にとって目の前の殴り合いは別次元だった。
魔法なしでもこれほど激しい戦いができるものなのか。
ひょっとすると自分は魔法なしの彼らにも負けるのではないか……?
そんな考えが頭をよぎる。
(いける、一気にケリを付けてやる!)
九澄が距離を詰める。
中腰になっている新宮の頭に狙いをすまし左の回し蹴り。
当たれば一気に戦いを終わらせる完璧な蹴り。
だが止まる。
新宮の両腕ブロック。
逆に九澄の体勢が崩れる。
そこから鞭をしならせるような左の裏拳が九澄の眼上を叩き、鈍い痛みを与える。
直後、両者が同時に斜め後方に跳び数メートルの距離が開いた。
九澄は肩で息をしながらも構えを崩さず相手を見据える。
戦いを見守る執行部員たちは皆息を呑んだ。
「……二人共なんて動きしやがる……」
「どうりで九澄が魔法を使わなくても充分やっていけるわけね……」
竹谷も氷川も驚きを隠せなかった。
影沼は口を固く結んだまま冷や汗を流していた。
「やるじゃねえかホントに……。
正直言ってこんな楽しい戦いになるとは思ってなかったぜ」
新宮が鼻血を手で拭いつつ口の端をつり上げる。
「何が楽しいだ……こんな無意味な喧嘩痛いだけだっつーの……」
九澄は喧嘩そのものを楽しむタイプでは全くない。
強くなった理由も環境(主に姉)による要因が非常に大きいといえる。
だが目の前の相手は明らかに殴り合いを楽しんでいた。
「まだ燃え足りねえだろう……?」
新宮が禍々しい笑みを浮かべる。
瞬間九澄の背にゾクリとした悪寒が走る。
直後新宮は九澄に向かって一気に踏み込んだ。
「それじゃあちょいとギア上げていくぜ!!」
左のジャブ、いやジャブと呼ぶにはあまりにも重く、強い。その連打。
一切の予備動作無しに打ち込まれるそれらが九澄の顔面と腹を次々に叩いた。
叩いた。
叩いた。
更に左のミドルキック。
ガードの上からでも腹まで突き抜ける衝撃に九澄の顔が歪む。
(こいつ……今まで本気じゃなかったのかよ!)
明らかに攻撃の重さが一段上がっていた。
九澄がサイドに距離を取ろうと踏み込みかけた瞬間、大外からの右フックが九澄の顎を打ち抜く。
脳が揺れる感覚。全身に痺れが走り、膝から力が失われる。
倒れる。
駄目だ。
倒れない。
倒れない!
九澄は無我夢中で新宮の胴体に抱きついていた。
タックルにも似た体勢だが、ただ倒れないためにすがりついただけだ。
新宮は肘を上げて落とし九澄の背中に突き刺す。
九澄はうめき声を上げながら両腕の力を緩めない。
今突き放されれば確実にやられる。
体が回復するまで、せめてあと10秒。
九澄は自由の効かない脚で精一杯踏み込み、自分の体ごと新宮を壁に打ちつけた。
鈍い音が響き新宮が口を歪める。
だが直後に新宮は腕を九澄の首に巻き付けヘッドロックのような体勢を作り一気に力を込め絞り上げた。
首への激痛で一瞬九澄の力が弱った瞬間を逃さず、九澄を振りほどき放り投げた。
「はあっ! はあっ!」
九澄は構え直しながらも大きく呼吸を乱す。
さっきとは疲労とダメージの量がまるで違う。
それほどあの右フックの一撃は強烈だった。
(くそうどうする……このままじゃあ……)
九澄に弱気が生じたその時だった。
「こらあ!! お前らそこで何してる!!」
声の主を見ればそれはこちらに駆け寄ってくる小男、大木先生だった。
その後ろには百草先生もいる。
「無許可で魔法バトルをするなとどれほど言ったら……!
これだから生徒だけには任せておけんのだ!」
怒り心頭の大木は、しかし新宮と目が合うやギョッと顔を引きつらせた。
「お、お前は新宮……!
なんでお前がここにいる、三年生はこっちの校舎に来るなと言われているはずだ……」
新宮は戦闘モードを解き余裕の表情で肩をすくめる。
「固いこと言わんでくださいよ、去年まで通っていた校舎じゃないすか。
ていうか大先生、ますます縮んだんじゃないすか?」
「う、うるさい。お前がでかくなっただけだ……」
腰が引けている大木を見て九澄は違和感を覚える。
(なんだ? 大先生、もしかしてビビッてんのか?)
怪訝に思ったのは百草も同様のようで、大木を見下ろしながら眉をひそめている。
「あの……大木先生……」
「と、とにかく! 一年の校舎で魔法バトルなど許さんと言ってるんだ!」
「魔法は一切使ってないすよ。素手でやりあってただけっすから」
「ええいどっちでも同じだ! とっとと帰れ!!」
「へいへい、それじゃあ大先生の顔を立てておきましょうかね」
新宮は分室の入り口でずっと直立不動のまま成り行きを見ていた紀川に歩み寄る。
「つーわけだ。帰ろうぜ」
紀川は注視しなければわからないほどほんのわずかに頷き、新宮の肩に手を置いた。
「ああそうだ九澄。お前の力は認めてやる。
次にやりあうときはお互いに魔法アリ、出し惜しみはナシだぜ」
新宮は嬉しそうに笑って拳を突き出した。
二人は赤いもやに包まれ、消えた。
場にはしばらく沈黙が漂ったが、百草がそれを破って九澄に駆け寄った。
「大丈夫なの、九澄くん?」
「あ、ああ。平気だよ、センセ」
「すっげえ喧嘩だったんだぜ。プロの格闘技みて~にハイレベルな互角の攻防でよ……」
竹谷が素人丸出しのフォームでパンチやキックを再現した。
「互角……ね……」
そう呟いた九澄の膝がガクンと曲がり、床に手がついた。
顔は苦痛に歪み口からは血がにじんでいる。
「ちょっと、九澄くん?」
「平気だって……自分で保健室行くからさ」
九澄はよろよろと立ち上がり歩き出した。
全身に痛みが残り、体重が倍になったかのような感覚だった。
人の視線から外れた階段の踊場まで辿り着いたところで歩みが止まる。
大木と話している時の新宮のひょうひょうとした様子が頭をよぎった。
(あの野郎まだ余裕で力を残してやがった……。
あのまま続けていたら間違いなく……ちくしょう、聖凪にあんな奴がいたなんてな。
無駄にバケモン揃いだぜここは……)
窓の外はどんよりと雨雲が広がり、今にも降り出しそうだった。
赤く腫れ上がった拳を強く握る。
ギリギリと歯を食いしばり、知らぬ間に下を向いていた顔を前に上げる。
(強く……ならねえと……。
大会に出ようと出まいと関係ねえ。
あんな奴らがいるこの学校に居続けたいのなら……)
そしていつか本物のゴールドプレートを手にして柊の夢を叶えるために。
九澄は力強く地面を踏みしめ歩き出した。
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